私が踏み台昇降を始めるまでのお話 Vol.6

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脳梗塞で有無を言わさず入院生活を余儀なく
されましたが、2020年3月2日無事に退院すること
ができました。

これからの日常生活のレベルは特段変化なく
以前のままで大丈夫そう、というのがある程度
のところで希望から確信に変わり、胸を撫で
下ろしました。

脳梗塞の診断を受けたときは身体も右半身は常に
しびれていましたし、脳梗塞だろうと漠然とした
確信はあったので、驚きはしませんでしたが
それは何とも言えない深い不安だったんです。

無事に退院したあとの当初の懸念としては、
『今後、仕事をどうするのか』ですよね。

職場に無事に退院したことを告げ、翌日には今後
どうするかの話し合いをすることになりました。

上司との話し合いの結果、次の部署を考えて
もらえることになりました。
その間はこれまでの仕事を続行です。ですが、
当然ながら条件を少し変えてやっていきます。

私の仕事は24時間365日のシフト制で夜勤は
1名で対応することもあります。いつ再発するとも
分からないのでとりあえずは夜勤はNG
そして車両の運転もNGとなりました。
これはかなり厳しい戦いになりました。

プライベートでは普通にもちろん運転はしています
が、こと業務においては致し方ないですよね。

とはいえ、仕事面はそのように落ち着いて
とりあえずは職を失うこともなくひと安心。

なのですが、前述のとおり車が使えないとなると
公共交通機関を必然的に利用することになり、
主に電車を使って移動となります。

重いと30kgくらいになるキャリーケースを携えて
移動になるので、入院中に衰えた体力をこれまで
以上に戻す必要が必然的に生まれてしまいました。

ジムには通っていたのでまたランニングを再開
することにしました。脳梗塞を起こした時も
ランニング中だったんですけどね。

ですがジムの中でもコロナウィルス対策のため
すでに人との距離を明確にとるような試みが
なされており、漠然とした未知のウィルスに対して
国内の警戒レベルも上がってきた頃合いになって
いました。

不必要な外出は避けるべき、StayHomeとあちこち
で言われはじめていたころになります。

数日はジムでランニングをしていましたけれど
出来れば家の中で出来る運動はないか?
ということで思いついたのが踏み台昇降です。

昔にもやっていたことがあるので、特に違和感は
なかったんですよね。

ですが案の定、数年ぶりにおうちでやってみました
が、これが想像以上にキツかったんです。

ランニングとはやっぱり使う心拍も筋肉も違う
んですね。

そんな中でも数日やってみるとですね、このような
ことが肌で感じることが出来ました。

外へ出るランニングやウォーキングと比べて
ウィルス対策とめちゃめちゃ相性が良い。

やらない理由を外の天気のせいなどに出来ない
のでめちゃめちゃ精神的にも鍛えられそう。

運動しながら何か他に出来る有酸素運動って
実はめちゃめちゃ効率良いんではないか?

続けるためにあれこれと考えてみて、とあることに
気がつきました。それは踏み台昇降をやっている人
は一定数いそうではあるけど
『誰も日本一を名乗ってやっていない』という
ことです。

それに気が付けば日本一を仮に名乗るとしたら、
何が必要なのかな?とゴールから逆転の発想です。

記録を残した方がいい、それにはカレンダーを
自作して書き込んだらいいかな?やブログを開設
してみたら良いかな?などいくつかアイデアも
沸きました。

何より、当初は思ってもみなかった踏み台昇降を
続けているうえで一番の収穫は踏み台昇降は
『脳にも良い』ということです。

私が入院したのは脳梗塞です。幸いなことに
後遺症はありませんがMRIで見ると疑いようのない
脳の障害が見えます。部位でいうと左視床という
ところです。もうずっと消えないキズなんです。

『脳に良い』のなら私にとって続けないという
選択肢は今のところないんですよね。

脳によいだけではなく、気分をポジティブな方向へ
向けてくれたり、自律神経も整え集中力、
やる気もアップ。

もう勉強すればするほどその恩恵には驚愕すら
してしまうほどのものばかりです。

別にウォーキングでもランニングでも良いの
ですが、
天候に左右されず毎日やることの出来る
踏み台昇降は同時に勉強も出来る、文字通り
最強の有酸素運動です。

おかげさまで昨日、目標であった100万歩を達成
することが出来ました。

100万歩の先に何が待っているか分からない
けど自分の足で確かめに行きます。

これはTwitterのプロフに入れた一文です。
自分の足で目標の地点にたどり着き、嬉しいこと
にたくさんの人からお祝いのメッセージを
頂くことが出来ました。

とても月並みですが、100万歩の先にまっていた
のはそうした皆さんとの出会い、繋がり、絆です。

次は200万歩に向けてコツコツと積み上げて
いきます。

これからもどうぞよろしくお願いします。

私が踏み台昇降を始めるまでのお話 Vol.5

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退院前日

2020年3月1日
明日はいよいよ退院。この頃になると体調も
異変を感じる前の状態にほぼ戻ってます。

強いて言えば、右足先の違和感。
2月18日、ジムでランニングしていた際
一番初めに感じたのはこの右足先でした。

その後は右半身の慢性的な痺れまで
進行したのですが、退院時にはそれも
気にならなくなりました。

結果的に、1番初めに感じた所がやっぱり
1番根が深いということなのかも
しれないですね。

どちらにせよ、当初よりもだいぶ
弱まってはいますけど、ほんの少しですが
動かしづらく気にならないと言えば
嘘になります。

今1番気になることというと
身体の異変よりも、どちらかというと
やはり体力ですよね。
こっちの方が心配です。

この病院へ入院した経緯としましては
職場から直接ここの病院へ来たので
お家に帰れるのかすら未知数です。

初めてここの病院へ来た後に、着替えや
PCやら持ってきてもらっているので
荷物も増えてるんです。

それはさておき、朝7時からせっせと
最後の作品となるくす玉作りです。
一番お世話になった病棟へプレゼントします。

30個同じものを折って、組み合わせていきます。
何を作ってるのか看護師さんに聞かれますけど
『ないしょ!』
とせっせと同じことの繰り返しです。


お昼ごはんを食べ、ずっと折っていたので
ちょっと疲れました。

気分転換に病院の外へ初めて出てみました。
みなと赤十字病院は文字通り
港に併設されていますので海鳥?が
沢山空を舞っています。


外の空気を吸うのも、日の光を浴びるのも
約10日振りです。

1時間ほどそのままウォーキングをして体力が
思ったより衰えていないことを確認でき、
ほっと一安心しました。

たぶん、ちゃんと帰れそうです。
同時に使ってない筋肉も沢山ありそう、と
いうのもわかりました。
これは当たり前ですかね。

退院したらスポーツジムでヨガでもしたいです。
いまの身体にすごい染みそう。

病室へ戻ってまたせっせと折ること2時間、
ついに30個全部折れました。

それから2時間かけてのりを使って整えながら
組み上げていきます。

出来上がったのは16時くらいかな?
朝7時からやってたので、トータルで
9時間くらいかかりましたね。

出来上がりはこんな感じです。
隙間が空いているくす玉を作ったのは
初めてでしたが難易度がハンパないですね。
自重でツプれるし。

思っていた出来栄えにはならなかったですけど
入院中の折り紙生活で1番がんばったから
良しとします。

最後の作品を作り終え、達成感いっぱいでしたが
おなかはペコペコです。
明日は朝食しか食べないので、夕食は
今日で最後になります。

ハンバーグとジャーマンポテトおいしかったな。。。

食後も院内をウォーキング。明日持って帰る
バックをたすき掛けにして
フロアを何週もぐるぐるしました。

途中、お母さんのお見舞いなのかな?面会に
来てたお子さん2人に余ってた折り紙で
ユニコーンとダリアを折ってプレゼントも
しましたね。

家と職場にも退院の連絡を入れて
私もあちらもほっとひと安心です。
この日は結構疲れていたのですぐ寝れました。

いよいよ退院

3月2日
そしてこの日はいよいよ退院です。
最後にMRIを撮るとのことで、それが終わり次第
退院手続きです。

朝の点滴を終えて、ついに左腕の点滴管を
外す時が。めっちゃ感慨深いです。

朝食時、これがこの入院生活の最後の食事です。
献立の紙に入院してからの感謝を
たくさん綴りました。

これで最後と思うと感慨深いです。
本当に毎食おいしく頂きました。
ありがとうございました。

たびたび病院食はマズい って聞きますけど
私からしたらまったくそんなことはなく、
マズいと言っている方々はたぶん気持ちが
沈んでいるときに食べたら
『何でもおいしく食べれない説』
あるんじゃないかとこの入院生活で思ってます。

朝のうちにリハビリセンターの先生のとこや
小児病棟へもあいさつへ行ったり。

相変わらずMRIは不快でしたけど何とか
乗り越えましたよ。いやホントに不快でしたけど。
結果として入院のときに撮った時と
脳の状態は変わっていないらしいです。

他の脳細胞さんががんばってくれているのか、
折り紙が思いの外良い影響を与えたのか、
ただ単に運がいいだけなのか

分からないままです。

10日間の入院生活もこれで全て終わり。

先に精算を終えて、当番の看護師さんに
くす玉の事を話してナースステーションの邪魔に
ならないところへ付けさせてもらいました。

ありがとう、みなと赤十字病院。
初めての入院生活で不安もたくさんありました
ですが、皆さんが暖かく接して頂いたからこそ
無事に退院できました。


バスと電車を乗り継ぐこと90分。家に帰るのホントに久しぶり。
ワンコが忘れてないか心配でしたけど、
大丈夫で良かった。

こういう状態になって初めて分かることって
たくさんあると思うんですけど、今回の一件で
1番身に染みたのは
『当たり前のことなんてない』ということです。
いくら感謝しても足りない。

久しぶりに家族ともゆっくり話せましたし
お風呂にゆっくり浸かることができるのも
いつもの布団で寝れるのも

ぜんぜん、当たり前のことじゃなかった。
これが今回の入院生活を経て
身に染みた事です。

次回へつづく

私が踏み台昇降を始めるまでのお話 Vol.4

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入院中の生活

2月25日~2月28日
これまで個室だったのですが、ついに大部屋へ移動となってしまいました。
でも、窓際だったのはツイてます。

26日にはシャワーも入れるように手配してくれて、久しぶりにさっぱりしました。
22日以降この時まで入れなかったので、嬉しいですよね。

この頃は少しずつ検査やリハビリなども入ってきました。
血が溜まっている箇所はないか太ももの付け根をエコーで調べてみたり、
四肢に負荷をかけて血圧の上昇を調べてみたり、造影剤を流しながらCT調べたりもしました。

これらの試験は脳梗塞を起こしてしまった原因を調べるために行うのですけど
結果として原因の特定には至らないんですよね。

いいことなのか悪いことなのか。
個人的には生活習慣にはそれなりに気を付けているつもりだったので
何かしら原因は出てきてほしかったんですけどね。

この頃の体調は入院当初と比べて、快方に向かっているのが分かるようになってきました。

前よりも断然歩けますし、字も書けるようになってきました。
折り紙、本当に効いてる説ありますね。

ひたすら時間を目て余す日々。日中はずっと折り紙やっていました。
担当の看護師さんは日によって変わるので、皆さん声かけてくれるの嬉しかったです。

ただ、器用とかそんなんじゃないです。
出来の悪いやつは闇の中へ葬ってるだけです。

ユニコーン

例えば、これはユニコーン
サイトを見ながら初めて折ったときは1時間くらいかかったかもです。
こうなる前の残骸がこちら。

ユニコーン

これはガーベラです。
それぞれの色に花言葉があるそうです。

ガーベラ

オレンジは神秘、羞恥心
ピンクは感謝、崇高美
黄色は究極美、究極愛
赤は神秘、燃える神秘の愛

数日入院して、幸いにも当初感じていた右半身のしびれも感じなくなり、
若干歩くときに右足先に違和感があるだけになっています。

折り紙熱も一段と増していき、2月の終わりには複数枚使って組み上げるものを
作るようになってきました。

四角

プロトタイプで作った立方体と、ふたつつなげたもの

四角

このあたりで限界に達してきまして、新たに のり を購入。

これから劇的に作品難度が上がってきます。
小さいパーツを60個作ってくっつけた花

花

ユニコーンも翼を追加してペガサスに。

ペガサス

くす玉なんかも作りました。

くす玉

入院して3日目くらいだったかな、これもリハビリで始めた献立に添えてるお手紙が、作ってくださっている皆さんへちゃんと届けて頂いているのを知って、なんか嬉しい気持ちになりました。

元から届くことを期待してやっていたわけではないですしね。
期待していないところで嬉しいことがあると何倍も嬉しいです。

献立

その間もちょくちょく検査やリハビリなどこなすのですけど
特段、どこにも異常はなし。

2月の終わり、そろそろやれる検査もなくなってきたとの事で
いよいよ、見えてきました。退院の日が。

ちょっと緊張しますけど、そろそろ当初からの計画を実行に移すころ合いになってきました。

入院当初からの願い

2月29日
朝ごはんを食べ、点滴を打ちながら向かった先は1階下の階。
ここに何があるかというと、『小児病棟』です。

これまで作った折り紙作品は当初からここの小児病棟へ全部あげるつもりで作ってきました。

コロナウィルスの影響で貰ってくれなかったら悲しいですけどね。
ナースステーションに恐る恐る近づいていく様はきっとただの不審者です。

あえて点滴をしてるタイミングで出かけたのが良かったかな
自分のことを説明する手間がある程度省けます。

リハビリの一環で折り紙作ってたのですけど
良かったらプレイルームなどに飾ってもらえたらうれしいです。

と、これまで作ってきた作品を差し上げました。
喜んで受けとってくださって本当に良かった。

こうして、20年以上前に小児病棟で教わったことがきっかけで、
今回没頭させてもらった折り紙はまた小児病棟へ還っていきました。
根底にあったのはきっと20年以上前に培った『人との環を大切にしたい』という思いです。

病室へ戻り思っていたよりも喜んで受け入れてくれたので、気をよくした私。
残ったいた金ピカ折り紙をぜんぶペガサスに。これは男の子用。

ユニコーン

女の子にも何か作ってあげたくてダリアも6個、急きょ作りました。
ほとんど寝れなかったですけどね。

ダリア

小児病棟へ行くと昨日差し上げた折り紙がさっそく飾ってあって、
頑張った甲斐があったな としみじみ。

ペガサス6体、ダリアも6個。喜んで受け取ってくれて良かった。
寂しくする子供達へ届いてくれたら嬉しいな。

さて、明日はいよいよ退院です。
最後にやり残したことをやります。

1番お世話になった病棟へ製作時間が10時間越えの可能性すらある大作を作ります。
ちゃんと作れるかしら。

次回へつづく

私が踏み台昇降を始めるまでのお話 Vol.3

私が踏み台昇降を始めるまでのお話

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人生で初めての入院生活開始

2月23日
脳梗塞診断を受け、人生始まって以来の嵐のような1日を終え、泥のように眠った私は7時ごろ起床。

出来れば夢であってほしかったですけど、
もちろん病院のベッドの上です。
現実は時には残酷です。

費用の面から希望は大部屋だったのですが、私の入院した脳神経外科は空きがなくいっぱいらしく、通された病室は個室でした。
テレビも見放題。せめてもの救いはそこでしたね。

まぁ、大部屋が空き次第移動になるんですけどね。
看護師さんに病院の1日のタイムスケジュールを教えてもらいました。

 朝食 8時
 昼食 12時
 夕食 18時


え?? 夜ごはんから朝ごはんまでの時間おかしくない??
14時間も間が空くなんてこれまでの生活ではありえないこと。
先が思いやられます。

体調は相変わらず右半身に違和感はありました。
幸いなことに麻痺ではないです。ただ慢性的に痺れている感覚です。

日課として定められたことは毎食前に体温、血圧、血糖の測定と服薬。
それと朝と夜に1時間くらいの点滴。これだけでした。
あとは各種検査をこれから少しずつやっていくとのこと。

食事の時にはリハビリを兼ねてこれから退院するまで「ある事」をするように決めました。

それはこれです。
献立の紙に感謝や食事の感想をひとこと書くことです。
写真は25日のものですけどね。


食事を作って頂いている方達へ届くかどうかわかりませんけど、誰に対しても感謝を伝えることって大事だと思うんです。

なんていうのかな、今は社会から完全に切り離された状態なので猶更のこと
自分はここにいるっていう証になるのかな。
イミフでごめんなさい。

昼間に職場の方が面会に来てくれました。
シフトに穴をあけてしまって申し訳ないですけど
今はしっかり休むことに注力するよう言ってくれて嬉しかったです。

2020年2月23日 お見舞い

そして、お見舞いにハーバーもらいました。
看護師さんに聞いたら食べても良いって、めっちゃテンション上がりましたよね。

午後に家族も面会に来てくれました。
着替えやら身の回りのものが必要ですしね。
脈拍や心臓の活動を計測する機械が取り付けられているのでお風呂入ったり出来ないのは厳しいです。

思ったより体調も悪くないので、看護師さんに相談したら院内の売店がひとつ下の階にあるのでそこくらいなら行っても良いということになりました。

少しだけなら歩いても大丈夫ということで、少し病棟の中を歩いてみました。
みなとみらいの街並みが見えます。
ガラス一枚向こうなだけなのに、すごく遠くにあるように思えます。

2020年2月23日 みなとみらい

20年以上の時を越えて再び

2月24日
やっぱり動かないので体力が有り余ってるのか目が覚めるの異様に早いです。
5時には目が覚めました。

冊子をみると朝7時からやってるのかな?
その時間までテレビみて時間をツブしさっそく売店へ。

折り紙

そこで買ったものは折り紙。なぜ折り紙?? てなりますよね。

まぁ、それはさておき、いそいそと自室へ戻り
さっそく作ってみたのはこれ

かたつむり

これは カタツムリ 見えるかな? そして

宝船

これは 宝船。20年以上経っても、案外折れるもんですね。

ドラゴン

これは割と大作、ドラゴン!

なんでこんなもん折れるのか、というとそれには理由がもちろんありまして
大学生活中、勉学よりもサークル活動に全力を注いでいた私。

ボランティアサークルだったんですけど、その活動の中に大学病院の小児科へ遊びに行くというものがありました。

親御さんの面会も19時で終わりになりますのでそこから2時間、寂しくする子供たちと遊ぶんです。
折り紙はそこの患者さんだった子供たちに教えてもらったんです。


指先をとても使うので脳梗塞のリハビリに◎
集中力を養えるし
何より安い

これからしばらく、この折り紙の魔力にどっぷりと浸かることになります。

みなとみらいの夜景も撮ってみました。

みなとみらいの夜景

綺麗ですね。

次回へつづく

私が踏み台昇降を始めるまでのお話 Vol.2

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病院へ到着

2020年2月22日
夜勤で引き継ぎの際に発覚した『ちゃんと字が書けない問題』先輩社員に促され医療相談に電話してみました。
症状を話した結果、『今すぐ救急車でを呼んで病院へ行ってください』との事。

ちょっとそれは。。。。タクシーで行くのでどこの病院がやっていますか?と訪ねます。
この日は金曜日、時間は18時。普通の病院ならもう診察時間は終わっています。

案内されたのは会社から車で30分ほど離れた「横浜市立 みなと赤十字病院」です。
夜勤は私一人なので、私が病院へ行ってしまうと日勤の人は帰れないんですよね。

申し訳ない気持ちいっぱいでタクシーを呼び病院へ向かいます。
ありがたいことにタクシー代として2000円も貰いました笑

車内でちょっと面倒なことになりそうだと、妻に電話しておきます。
ちょっと前から異変が起きていたのは伝えていたので割と落ち着いて電話できたと思っています。

『たぶん脳梗塞かも 今病院へ行かせてもらってる。診察したらまた連絡するわ』
みたいな内容です。

車内で脳梗塞について調べてみると40代、確かに早いけどリスクはないわけではないみたい。それでも、

私は普段から煙草は吸わない。(口付けたことすらもない)
お酒も飲まない。(買う酒類は料理酒くらい)
ジムで運動するのも日課にしてる。

確かに昔から高脂血症の症状はあるけれど、もっと生活に気を付けていない人はたくさんいそうなのにな、と考えてました。

19時くらいかな病院へ到着しました。救急受付で問診票を記入するんですけど本当に字が書けません。
この後、大きく後悔することになります。

この時間は救急受付なので、ホントに待たされます。
医療相談の人が言ってた『救急車で行け』というのは、こういうことだったんですね。
タクシーで来れる人、自力で来れる人は(優先度が低くたぶん)後回しなんです。

目の前に家族連れが座っていました。小学生の男の子が転んだ際に手を付いた時に痛めてしまったみたいです。

痛がってずっと泣いてるんです。たぶん骨折してるんじゃないかな。。。。早く診てあげてほしいのですが、中々呼ばれません。

私は自覚症状はあるものの痛みはまったく無かったので、ただ座って呼ばれるのを待ちます。

病院なのでしょうがないですけど、スマホのアンテナが立たないのでひたすら音楽聞いてるだけでした。
イヤホン持ち出してて本当に良かったです。

1時間くらい待ったところで無事に私よりも先に男の子が呼ばれ、しばらくして出てきました。
痛み止め打ってくれたのかな?
ギプスをはめて痛みのピークは脱したみたい、良かった。

診察の始まり

男の子を見送ってしばらくして、やっと私も呼ばれました。
問診表に症状を書いていたので触診を少しして検査をしましょうとなり、担当の先生のから以下のような説明を受けます。

まずはCTで脳の中を見てみます、脳卒中など血液の塊があればこれで分かります。
もし、それでも原因がわからなければ次はMRIをやります、と案内されました。

私は生まれてこの方CTもMRIも未体験だったので不安とドキドキで胸の高鳴りはありました。
ですがそっからさらに40分程待たされて、その頃には完全に無の状態です。

その後、CTの撮影を行い結果を見ましたがやはり異常は見受けられず。
次はMRIの検査を、となりました。

私の中では『あぁ、これはやっぱり脳梗塞で確定だな』と、 このタイミングで悟ったのを覚えています。

この間も時折、会社へ現状の報告を入れていました。
日勤さんには悪いけど残業してもらうことになり申し訳なかったです。

MRIを行うにあたり、金属製のものは身に着けられないとのことでベルトとかも金属部分があるため患者衣を借りてちょっと肌寒いのを耐えることさらに1時間。

初めてのMRIでした。ご経験ある方はご存じでしょうけど、あれほど不快なものはこれまで体験したことなかったですね。

北斗の拳のジャギが着けてるお面みたいなの被せられ、頭は動かさないようにと固定され、装着させられたヘッドホンからジブリっぽい音楽は流れるんですがそれ以上に不協和音とでもいうのかな?

ノイズ音ですね、しかもけたたましいやつ。まったく聞こえないです、ジブリ。
この状況で15分堪えないといけませんでした。

これ、途中で悟ったのが『あぁ、これは無でいるのが一番いいか』ですね。

初めに閉所恐怖症を持っていないか問診表に記入するんですが、このMRIやったことで閉所恐怖症を誘発する人いるんであるまいか? って思いました。

MRIでの結果を見て、先生の言葉は
『脳梗塞です。まだお若いのにお気の毒ですが』との事でした。

『やっぱりそうですよね』と、ここは覚悟を決めていたので割とすんなり受け入れることが出来たのは自分で自分をホメてあげたいです。

写真をみると脳上部の左側に影があります。大きさは2㎝位でしたかね。
『ここは視床という部位で、左視床の脳梗塞という診断になります』

詳しく話をしていただけたのですが、ここでの会話の一番のポイントを箇条書きにします。これはとても大事な内容です。どなたにも言えることなのかもしれません。

・これから1週間ほど、症状の良し悪しの波がある
・だいたい1週間が経過すると、その波の変動が止まる
・止まったタイミングでの症状が今後の後遺症となる
・大多数の人は今よりも良い状態で止まるのは難しい
・これから死ぬまで何かしらの薬は飲むことになる

ということで、これからの1週間は私の人生において最も大事な1週間となり得るということを思いました。

また、身近な人で私のような症状の人が居たら何はなんでも今すぐ病院へ行かせてあげてください。人生で一番大事な1週間がすでに始まっている可能性が高いです。

先生が仰るには、入院しないという選択肢はない。でも、どこの病院で入院するかは考えてもらっても良いとの事。

迷ったのは入院するにしても会社から直接、ここの病院へ来たので自宅とは遠いんですよね。

自宅から近いそれなりの病院へ行くにしても明日は土曜日。
ヘタに動くよりも出来るだけ安静にしたほうが良いとの事なので、このまま入院して
再発を抑えるために原因はどこにあるのか探る
症状に合った薬は何なのかを見極めていく

ことにしました。

会社を出たのは18時過ぎでしたが、この頃の時間は23時過ぎです。
会社に電話して現状の報告をし、ありがたいことに荷物を持ってきてくれることに。家族にもLINEで症状を伝えました。

しばらくして入院するベッドを用意するとの事で処置室で横になりました。

なんか、今日はいろいろと大変なことになったなぁ
シフトに穴開けたら大変だなぁ
家族も心配するよなぁ
ワンコにも会いたいなぁ

などなど思いを巡らしていましたらいつの間にか日付も変わり
看護師さんが左腕に点滴のための管をつけて下さいました。

その時の写真が残っていたのでアップしておきます。
禍々しい何かを封じ込めた我が左腕。

その後、荷物も無事に受け取り病室へ移動して
正直なところ、かなり疲弊していたのですぐに眠りました。

次回へつづく

私が踏み台昇降を始めるまでのお話 Vol.1

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こんにちは、マサシです。
今日から踏み台昇降を始めるきっかけとなったエピソードを少しづつ話していこうと思います。
>>私が踏み台昇降を始めるまでのお話 まとめ はこちら

始まりの違和感

2020年2月19日
午前中に通っているスポーツジムで日課のランニングをしていました。
時速10kmで1時間。トータル10㎞の予定でした。

始めて35分を経過した時、右足に違和感を感じたのがすべての始まりです。
この時に感じた始まりの違和感は
「なんか右足が空回りするな」です。

膝から下に力が入りにくい感覚です。
自分の足じゃないみたい。

なのでランニングマシン上で右足で蹴るときにバランスを崩したりしました。
これはちょっと危ないな、とウォーキングのスピードを変えます。

時速10kmから6㎞へダウンさせ、10分程歩いて様子を見ましたが
右足の膝から下の違和感はかわりませんでした。

この時の私の脳内の思考は
『少し前に扁桃腺を腫らして寝込んでいた時期があったからそのせいかな?
と軽く考えていたんですよね。

うまく走れないのでその日は早めに切り上げて、
ジムでお風呂に入って午後から仕事へ行きました。

ちなみに、私の仕事はIT系の保守業務といったもので、どこかでインターネットの疎通が出来ないなどの『障害』が発生するとNTTの電話局や一般のマンションなどへ駆けつけて故障対応をする、というのがメインの仕事です。

いつ障害が発生するのか分かりませんので
24時間、365日 誰かしらは必ず勤務しています。
そうです。カレンダー通りではない仕事です。

この職場で私は7年目になります。
夜勤もあるというと、一般的には寝れないなどで敬遠されることが多いです。

ですが、私の職場は基本的に何もなければ夜勤も仮眠できますし、特に大きなストレスはなかったです。この時間を利用して国家資格を取得したりも出来てますしね。

この日の勤務を無事に終えて、翌日の2月20日
自宅に帰りまたジムへ行ってランニングをしに行くのですが、やはり右足の感覚は変わりません。

この日も運動するのは諦めてサウナで汗を流しお風呂に入って家へ帰ります。
夕方、買い物で車を運転しましたが思う様にブレーキをうまく踏めませんでした。

ギュッ! という感じです。いきなりゼロから100へ踏み込んでしまう感覚。
急ブレーキのようになってしまうんです。

うまく調整できない、自分の足ではない感覚に
いよいよこれはただ事ではないかも、

と恐怖したのを覚えています。

2月21日、仕事は休日です。
木曜日はスポーツジムもお休みなのでワンコの散歩へ出かけました。

いつもだとさすがに全速力だとチワワに負けることはなかったのですけど、右足の違和感からやはりうまく走れずチワワに負ける始末。

何が原因なのかよくわからず、筋肉の異常かと思いALSやら筋ジストロフィーなど検索したのを覚えています。

明らかに違う新たな違和感

2月22日、この日は夜勤でした。
午前中にお風呂だけでも入ろうとジムへ行ったのですけど(ジム好き)
身体を洗っているときに、これまでなかった新たな違和感を感じました。

右手で身体の左側がうまくこすれません。
頭を洗う時も右手を使うのにいつもと違う感覚です。

何をするにも、利き手であるはずの右手で何かしようとするとうまく力が入らない。
動かしたいように動かせない。明らかにこれまでとは違う違和感です。

困惑しながら夜勤のため出社して、日勤の勤務者と引き継ぎを行った際に
『最近ちょっと体調がおかしくて』と、カミングアウトしたんですね。

というのも、引き継ぎを聞きながらメモを取るのですが、ぜんぜん字が書けなくなっていたんです。

利き手ではない左手で書いたほうがまだ読める、そんな字です。
何十年、何千回と書いてきた自分の名前すらちゃんと書けないんです。

もともと字を書くのはヘタだったんですけど、
それでもこれほどいびつな字を書くことはありませんでした。

先輩社員へ医療機関に電話してみることを勧められ、そんな大袈裟なと思いながらも電話口の方へ症状を伝えました。
あちらがいうには『何してるんですか、今すぐ救急車を呼んで病院へ行って下さい!』でした。

次回へつづきます。

私が踏み台昇降を始めるまでのお話 まとめ

2020年3月の終わりからほぼ毎日、踏み台昇降をしていますが
なぜ始めたのかの経緯を纏めています。

プロフィール欄よりも私の人当たりが
結果的に垣間見える内容になりました。
宜しければぜひご覧ください。

第1話 始まりの違和感

第2話 診断そして入院

第3話 人生初めての入院生活

第4話 入院生活と秘めた思い

第5話 感謝の退院

第6話 100万歩の先に待つもの

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