『自分』っていうものを考えてみたお話

こんばんは、今日は
自分というものについて考えてみた
っていうことで皆さんと共有したいと思います。

自分が自分でいられる時って
どういう時だと思いますか?
ちょっと考えていきたいと思います。
良かったらお付き合いください。

お待たせしました。では、
『自分っていうものを考えてみたお話』
スタートです。
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私たちが毎日、何気なく使っている言語。
それはもちろん日本語です。

話したり、文章を書いたり
もうこれなくしては暮らしていけないですよね。

今日は、そういえば。。。。
ってちょっと気が付いた事をみなさんと
考えていけたら嬉しいです。

そのちょっと気が付いた事なんですけれど
どういうことかというと、

やっぱり日本語って変わってるな、って
思ったのです。

何が変わってるか、というと
よくわかるのは『自分』という日本語です。

自分を表す言葉ってたくさんあると思うんです。

私 だったり
僕 だったり
俺 だったり
あたし だったり
うち だったり
小生 だったり
小職 だったり

古くには

拙者 や それがし などもありますよね。

ここに挙げただけでも 9つ ありました。
不思議だと思いませんか?
英語で言えば、ぜんぶ I なのに。

ここで、大事なことに私は気がついちゃった。
それはね、伝える相手によって
使い分けるっていうこと。

これって日本語の特徴のひとつですよね。
敬語などにも代表されるように。

その根底に眠っているものは
「自分」を表現するには必ず
相手がいるということです。

「自分」って『自らを分ける』って書きます。

きっと、自分を分けられる相手がいて
もっと言えば、極論として
あなたがいてくれるからこその
自分なんだと思うんです。

あなたも日々、きっと分けられる誰かが
いるからこそのあなたなんだってことなんです。

みんなに仲良くしてもらって
大事にしてくれる人がいてくれるから
こその自分なんだ。

そう思うんです。まぁ同時に、
脳内お花畑と言われてもしょうがないとも
思っていますけれど。

それでも、私たちは数えきれない人達と
自分を分けて、分けられて日々暮らしています。

それって、ひょっとしたら
こころを分けて分けられて生きている。

繋がってる。

私とあなたもきっと
今日もどこかで繋がってるんだと思うんです。

だから、自分の手が届く範囲だけでも
『奪う』でもなく『傷つける』でもなく
共に育み、作り上げていく、そういう日常に
していきたいと切に願います。

つい先日、誹謗中傷が原因で心痛めてしまう
ニュースがありました。

こころからご冥福をお祈りします。


『自分』は『分けてあげられる誰か』がいるからこその自分。
だから、たくさんの人ときっとどこかで繋がってる。

そう思えれば、
一方的に誰かを傷つけてしまうような
心無い言動や悪ふざけも
思いとどまれるのではないかと思うのです。




では、最後までご覧頂いてありがとうございます。
また別の記事でお会いしましょう。

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